終わりなき欲求の光と陰

メンタル



終わりなき欲求。

一般的に、終わりなき欲求、もしくは際限ない欲求の良し悪しはその対象物で判断される傾向にある。

際限ないお金への欲求。

際限ない富への欲求。

少し聞こえが悪い。

終わりなき向上への欲求。

これならポジティブに聞こえるかもしれない。

お金に対する欲求はしばしば、ネガティブな例として取り上げられる。

よく言われるのは、ある一定額までの収入の増加は、幸福度の増加と比例するが、あるラインを超えるとそれ以上は幸福度は増えない。

しかし人間の欲求は際限がないため、お金を得れば、さらに、もう少し、もっと、と際限なくその増加を求める傾向にある。

お金に関してだけ言えば、なんとなく、どこかで割り切らなくてはならないし、お金が全てではない、といったことを考える必要があることは、現実的な側面からも理解できる。

理解できるというか、そういい聞かせている部分もある。

これがこと、自分の向上心についての話であったらどうだろうか?

際限ない向上への欲求。

聞こえは悪くない。しかし、最近思うことは、その根底にある真理は同じなのではないか?ということだ。

つまり

それが本当に満たされ切ることはないのではないか?

ということ。

際限なき向上への欲求は際限なく求めて良いのだろうか? 

結論から言えば、お金と同じく、正解はないわけで、人ぞれぞれだ。

ケースバイケースという一番、しっくりくるようでしっくりこないやつだ。

そもそも、欲求という言葉がいささか聞こえが悪いのかもしれない。

お金に対してなら、欲求はしっくりくる。というか、その組み合わせは方々で使われている。

向上したい気持ちに対してはどうだろうか?

向上したい欲求。

そもそもの言葉の意味から見れば、決して間違ってはいないのだろう。

欲求は元来我々生物が、求め欲する気持ちのことなのだから。

従って、人間の4大欲求、生理的欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求。といった言葉は現に存在する。

向上したいという欲求=向上欲求=向上心。

普段使い慣れている言葉で言えば、向上心がしっくりくる。

際限ない向上心。あくなき向上心。

これは善なのだろうか。

結局のところは程度の問題でもある。

向上心そのものは非常にポジティブなものだ。自分もそう思っているし、世間でもそういう捉えられ方だと思う。

しかし、際限ない場合はどうなのか。

海外で医療者として働く目標を掲げて、まっしぐらに走ってきた。

今まで喋ったこともない言語をゼロから学び、歯科医師免許取得への勉強も再度しなおし、外国語で国家試験を受け、数えきれない書類を準備し、3週間にわたる試験を乗り越え、合格。

オランダの歯科医師免許を取得し、晴れて歯科医師として、オランダの臨床現場で患者さんを診るという念願が叶った。 

晴れ晴れとした気分だった。
達成感で溢れていた。
嬉しかった。
幸せだった。

そしてその感覚が今後、未来永劫、自分の人生が終わるまで続けば良い
(とまでは思ってはいないが、そうであれば感無量)わけなのだが、

そうはいかないのである。

次なる課題、挑戦、そしてひいてはさらなる不安が姿を表すのだ。

医療者として、診断能力や治療の技術に対する、向上心は持っていて然るべきだし、なくてはならないとも言える。

しかし、難しのは、どこで満足するかという点だ。

これらの能力を正確に客観的には評価できない。

一般的に見れば、満足のいく能力であったとしても、自分がそれに満足していない、もしくは、そのレベルが満足いくレベルだと思って良いのかわからない。となると、途端に不安にになるのだ。

このままではダメだ。
とか、
ここで満足していて良いのか?

考えなくてもいいことなのかもしれないが、考え出すと沼にハマっていく。

そして、往々にしてい、いやまだダメだ!という方向に考えがちだ。

これは、その時々の心理状態にもよるが、頭の中の独り言(チャッター)の話にも発展していく。
そこについては今回は触れずに行こう。

話がいささか漠然としていて抽象的かもしれない。

部屋に例えてみよう。

つまり、やっとの思いで目標(夢)という部屋にたどりついたわけだ。その部屋の扉を開けて中にはいる。

そこは夢にまで見た、入りたかった部屋だ。当然、達成感と幸福感に満たされている。

しかししばらくして、よくよく部屋の隅々にまで目を配ると、そこにはまた別の2枚の扉があることに気づくわけである。

その扉には、こう書かれている、「次への挑戦」、「次なる不安」と。

当然不安は避けたい、ということで次への挑戦の扉を開ける。

するとその部屋にもまた扉があり、同じように「次への挑戦」、「次なる不安」と書かれている。 

不安を回避しつつも、部屋を進んでいくうちに、やがてどちらのどびらにも「次への不安」としか書かれていない部屋に辿り着く。さぁ、どうする?

こう例えれば、ある意味答えは簡単だ。

次の扉を開けなければ良い。その部屋に留まり続ければ良い。それで良いではないか。

うーん。

自分で言ってみたものの、やっぱり しっくりこない。

留まり続けるということは、現状維持だ。それでいいこともあるし、それじゃダメなこともある。

やっぱりケースバイケースなんだな。

これを読んでくだっさている方々の考えはどうだろうか?

ここに終わりなき探究へのジレンマがある気がする。

でも、私は最近思う。次の扉を開けずに、その部屋に留まりその部屋を満喫する時があっても良いのだと。

そして、さらには、自分が今まで開けてきた扉の数々を振り返り、これまで過ごしてきた数々の部屋での時間を思い出して、自分はよくやっていると自分で自分に言い聞かせてあげることも、非常に大事なんだと。

人生は有限で、人の人生はいずれ終わる。自分の人生も間違いなくそうなのだ。人生の流れは終わるのに、欲求が際限ないのでは、どう考えたって折り合いがつかない。欲求も時には止めよう。例えそれが向上心という、無敵のポジティブイメージを持っていたとしても。

自分が自分で、怠けていないと思えれば、もう、それ以上はない。

自分を十分に褒めて、自分の成し遂げた功績を振り返り、そこから得られる恩恵を存分に感じれば良いと思う。

慢心だけはしないように。

と、うまくまとめた感じで筆を置こうと思ったが、正直言って頭の中では堂々巡りだ。

医療に限らずだが、さまざまな分野で研究は終わることなく続けられている。

そのおかげで、エビデンスや診断基準、治療方針、治療方法は日々ブラッシュアップされていく。

挑む相手が日進月歩で進化していくのであれば、挑戦者である我々もそれに合わせて変わっていくのが理にかなっている。

そうなるとペースの問題ということだろうか。

いな、関わり方の問題なのだ。

がむしゃらに休むことなく次の扉を開け続けるのではなく、ライフゲージの残量が少ない時は、

その回復を見つつ自分なりのペースを調節しながら、次への扉を開けていくとしよう。

結局、終わりなき向上への欲求は、抑える必要はないのだ。

その関わり方で、有益にも有害にもなり得る。

という結論で納得することにする。

どうせ終わらないなら、せめて光の方向に進んでいくことだけに注意しながら関わっていこう。